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「You need not have…」
春の教室には、チョークの音と先生の声が響いていた。僕は窓際の席に座っていて、先生の話を上の空で、外の景色を2階の窓から眺めていた。青い空に雲が薄く引き伸ばされているのを見た。その頃、僕はもう高校3年生で、自分も周りの多くの生徒も、大学受験を控えていたので、少し横を見ても、僕みたいなのはいなかった。
 「ではそこの部分、井上君訳して下さい」
 あまり集中していなかったのに、急に指されて、少し慌てたが、何とかそれなりのことを言った。
 僕は十七歳で、東京都内の進学校に通っていた。僕にとって、高校3年生というのは、何とも奇妙な日々だったように思う。といっても、何か大事件に巻き込まれたわけではない。僕等が大人になるように時間に追われながらも、世の中のことも自分のことも、あまりにも分からなすぎて、将来の事だってそれを見据えるには、判断材料がとても少ないように思えたし、また今振り返っても、少なかったのである。
そのような時期に、僕はある一人の同級生と巡り会った。それは、僕にとって、人生の転換期の一つとなったように思う。どんな出会いが、自分の人生にどんな影響を与えるかと言うことについては、おそらくどんな哲学者も予測し得ないのではないだろうか。
 休み時間に、僕は小説を読もうと本を開いたが、ある会話が、僕の席まで聞こえてきた。
 「お前、志望校どこにした?」と男子生徒の竹田圭太(たけだけいた)の声が聞こえた。
「東京大学にした」と田中為清(たなかいせい)ははっきりと答えた。
 「すごーい」と声を上げたのは、女生徒の原咲(はらさき)だった。
 「さすが2位」と竹田が言った。
 田中は成績が学年順位2位だった。
 僕はトイレに行きたくなったので、本を閉じて、教室の出入り口近くで会話をしている彼らの側を通り抜けようとしたが、呼び止められた。
 「新次、大学どこにすんの?」と竹田が訊いた。
 「まだ決まってない」と僕は答えた。
 「井上君は経済学部志望だよね?」と原が訊いた。
 「うんまあね……適当だけど」と僕は言った。
 「私も経済だけど適当。やりたいこと分からないし」と原が苦笑していった。「田中君みたいに頭良くないし」
 「でもまだ学年トップにはなったことないんだよね。常に首位を譲らないあいつがいるから」と田中は、誰も座っていない席を見て言った。
 「岸本君、今日はどうしたんだろう」と原もその机を見て言った。
 「風邪引いたらしいよ」と竹田が言った。
 話題に上がった岸本亮馬(きしもとりょうま)は、成績が常に学年トップで、彼もまた、東京大学を志望していた。
「岸本君、1日10時間勉強してるんだって」と原が言った。
「10時間?」と、緒方由美(おがたゆみ)が飛び込んで来た。
 「ケイタ君が言ってた」と言って原は竹田を見た。
 「え、俺そんなこと言ったっけ?」と竹田は言い返した。
 「言ったよー」
 「そうだっけ。いや、あいつカンニングしてるらしいよ」と竹田は声をひそめていった。
 「またそういうこと言っていいの?」と緒方が心配そうに言った。
 「カンニングの噂は俺も聞いた」と田中が言った。
 「本当に?」と僕が言った。
 「ああ。噂だけど」と田中も少し声を小さくしていった。
 「あと岸本の家って超大金持ちらしいよ」と竹田が言った。
 「らしいね。岸本も自分で株のトレードしてるらしいし」と田中が頷きながら言った。
 「しかも、インサイダー取り引きしてるって聞いた」と竹田が言ったが、その言葉を聞いた時、岸本についての噂話の信憑性が自分の中でとても下がった気がした。
 僕はトイレに行こうとしていたのを思い出し、その場を離れた。

 次の日、僕は学校からの帰り道の途中で、参考書を求めて本屋に立ち寄った。デパートの中にある、大きい本屋の学参コーナーには様々な参考書や問題集が並んでいて、僕のような高校生達が真剣に吟味していた。僕は2,3冊を選んで、それから小説の棚にふらりと立ち寄った。夏目漱石の『こころ』が目に留まり、手に取ってみた。この小説は教科書で抜粋されたものを読んだことはあったが、最初からちゃんと読んだことはなかった。
 「井上?」と、突然誰かが僕を呼んだ。
 少し驚いて、左を向くと、クラスメイトの岸本亮馬がいた。
 「岸本」
 「『こころ』か」と彼は僕の手に持っている本を見て言った。
 「読んだことある?」と僕は訊いた。
 「あるよ」と岸本は答えた。
 「面白い?」
「面白いよ。まさに恋は罪悪という話だね」と岸本は言った。
 「読んで暗い気持ちにならない?」と僕は訊いた。
 「暗くなるかもね。でも、それは、理論的な事でね……」と言った彼の言葉を、僕は不思議に思ったが、深く訊かなかった。
 僕は彼とメールアドレスを交換し、受験勉強のアドバイスを、これから何度か求めたいということを頼んだ(実際にはメールはほとんど使わなかったけれど)。
 「まぁ、俺にできることなら……。俺あんま勉強できないけど」
 この言葉は、彼が謙虚深い人間だというほかにどう考えたらいいのだろうか。
それから2,3日後、駅前で僕達の高校の女生徒が二人で、ストリートライブをしていた。二人ともアコースティックギターを弾いて、自分たちの創った歌を披露していた。僕が数人の観客と共に聴いていると、そこを岸本が通りかかった。彼は僕に気づいて、僕の横に立って一緒にしばらく聴いていた。歌の途中でギターの弦が一本切れたが、それでも彼女達はそのまま歌い続けた。ふいに警察官がやって来て、その時の曲が弾き終わるのを待ってから、彼女達にストリートライブを止めるよう言った。
「もう少しだけ駄目ですか?」と岸本が警察官に訊いた。警察官は近所迷惑になるからと言った。当の二人も、しょうがないので今日は終わりにしますと言った。
 「もっと訊きたかったな」と岸本は言った。
 彼女達はギターをケースにしまい、それを背負って帰っていった。僕は彼に彼女達の歌の感想を聞くと、とてもポップだった、と言った。たしかに、彼女達の歌は親しみやすいメロディと言葉を持っていた。もう辺りは暗くなっていて、月と街灯が光っていた。
 
五月、六月は、僕は大学のパンフレットを見たり、オープンキャンパスに行ったり、模擬試験を受けたりしていた。僕は岸本に受験勉強のアドバイスをもらったおかげで、多少は偏差値が上がった。僕は自分の大学生活を送っている姿を思い描き、自分の少し先の未来を明るく見ることができた。そして僕の心境も少しずつ変わっていき、僕はもともと経済学部志望のつもりだったが、文学部もいいなと思い始めていた。そこで、今度は文学部のある大学を調べ始めた。
雨が降ったり、晴れたりする日々を過ごし、晴れた日の体育の後は、汗をたくさんかいた男子生徒がクーラーの前で風に当たるようになった。1学期の期末テストが行われる頃には、僕は岸本についての噂話の事はすっかり忘れていた。僕があの噂話を再び思い出したのは、英語の試験を受けている最中だった。
 「カンニングだ」という声が、突然静寂の教室に響いた。
 クラスメイト達は皆、自分が非難されたのではないかと思ったかのように驚いた。僕もそうだった。試験監督をしていた先生が、声の持ち主の田中を見た。
 「どうしたんです?」と先生が田中に近づきながら言った。
 「岸本がカンニングしてた」と田中が言った。
 「え?」と岸本は驚いた。「何の話だ?先生見て下さい、僕の机にも腕にも何もないでしょう?」
 先生は彼の身の回りを調べたが、何も見つからなかった。
 「何もないが」と先生は田中に言った。
 「いや、俺は見た。カンニングペーパーがあった」と田中が言った。
試験はとりあえず続行された。
 その後、岸本と田中は職員室に呼び出されたが、そこでどんなやり取りがあったのかは分からない。やがて岸本が戻って来て、彼の無罪が認められた事を聞いてほっとした。
田中は見誤ったのか、それとも故意に岸本にカンニングの嫌疑をかけたのかは、今も僕には分からない。また、岸本はやはりカンニングしていたんじゃないかとも噂になった。ただ、それはこれといって確かな根拠のあるものではなかった。
 「田中を殴りたくならなかった?」と学校からの帰り道に僕は岸本に訊いた。
 「いや、殴りたくはならなかったよ。殴っても仕方ないし……」
 彼は、穏やかにそういった。

 次の朝、登校してきた岸本に、原が質問した。
 「サイダーで儲ける方法教えて」
 「サイダー?」と岸本は戸惑った。



















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